上手くいかない人生における他責思考とジレンマ

自己紹介

 さて、筆者のSNSをご覧の皆様方に置かれましては、筆者の日頃の言動・行動から察するに余り、まぁ順風満帆な人生からはかけ離れたところを歩いているというのは御賢察の事と思います

 先日、この事を母親と話していた際、「前にも言ったけど、あまりにも白黒思考が過ぎるんじゃないのか」という話題になりました。

 まぁこれに関して、自分なりに思ったことを整理したり、思いの丈をぶつけるのも一つ、ブログの使い方なのかな。と思い、筆を執っている次第です。

人生とは

 なんて大それたタイトルにしましたが、人生なんてそののは、その人の生き方。というわけです。平々凡々に生きる人もいれば、晴天の中、嵐一つ合わず合わず順風満帆に生きる方も居るでしょう。そして筆者の様に嵐や崖っぷちを歩む人もいるでしょう(俺の方が酷いわアホたれ!!と思うのは自由です。人生における辛さなんて言うのは、それそこ人の価値観なので)。

 筆者の場合は幼少期ーそれこそ幼稚園時代から虐めに遭い、それはまぁ高校生くらいまで延々と続くわけです

 そして高校生時代には両親は離婚し、母子家庭になります。

 高校を卒業して専門学校に入学して2年後には、離婚し離縁した父親が自死したという一報が舞い込んできます。で、それでもなんとか踏ん張って4年制の専門学校を卒業するわけです。

 そのあとは技士としてなんやかんや14年目に突入したわけです。

 その技士人生に関しては、長くなるので割愛します。詳しく知りたい方は別記事を読んでみてください。

現状の整理について

 さて、筆者の現状というのはまぁ色々と複雑です。

 職場は6つ目ですが、透析onlyの病院です。しかし、医師は糖尿病内科医が担当し、患者の管理はおざなり。PostBUNが20mg/dLを超えている外来患者なんてざらです。

 看護師に関しても「Kt/Vが高い患者がいる!!これはどうにかしないといけない!!」なんて戯言をいう副師長(笑)が居る始末。「この患者さん、Cr高いんよね~。どうしたもんかな~。」と言っちゃう師長も師長です。師長の事は人格者だと思っていただけに、この発言を聞いた時には少しガックシしました。

 技士に関してもAlbが3.0mg/dLを超えている患者にも拘らず、OHDFを導入しないどころか、導入しても時間補液量は3~6L/Hがほとんど。僕が無理やり介入した症例に関してのみ、補液量が何とか10L/Hを達成していますが、本当は12.5L/Hまで持って行きたいのが理想です(詳細は下記記事参照で)。しかし、やれ「この人はそんなに食べてないから(半年間以上Alb>3.2mg/dL以上を維持)。」「Albが下がったら大変だから。」とか言う始末。経験って大事ですね。OHDFしたからって、そんなクリティカルにAlb下がる訳ないだろ(笑)。OHDF反論派で唯一理論的な反論をしている方は、X(旧Twitter)で一人しか見たことがありません。

 さて、お気づきの方も居るでしょう。というかまぁ普通に思うと思うのですが、これらは愚痴以外の何物でもありません。所謂他責です。

先日の出来事

 先日、X(旧Twitter)でスペースに関する僕の考えを述べたツイートが極々一部でプチ炎上でしました。

 問題のポストはこれです。このポストに対して、自分は喋らない癖に、他人に要求するのはどうなのか。自分こそその態度を改めるべきだ。ホストとしての義務を果たすべきだ(つまりはお前から喋れ話題を振れ)。という訳です。

 まぁ一理あるでしょう。Speace(空間)のあるべき姿自体はX社が模索している最中でしょうけど。

 そしてこの問題のポストの直前くらいですかね。筆者、恋人と破局しました。原因は「お前は口を開けば仕事の愚痴ばかりだ。」ということでした。

 相手の話を聞く(傾聴する)姿勢を見せなかったことも要因としてはあるでしょう。正直反省しない訳ではありません。ただ、これを100%俺が悪い。というのも違うと思うのです。コミュニケーションエラーですよね。察しろ系は筆者は大っ嫌いです。それを「そんなことも分からないの!?」と言われるのは心外です。それならそうと言えばいいだけだと思うのですがね。〆には「お前と働く職場の人間は、そりゃ苦労するし可哀そうだ」でした。捨て台詞も中々強力でしたね。

 さて、ちょっくら脱線してしまいましたが、まぁお気づきの方も居るとは思いますが、これらもまた他責的思考の塊かもしれません。

 先ほどのpostの締めくくりは、「その考え方を改めない限り、アカウント変えようと転職しようと、同じことの繰り返しだよ」でした。母親(公認心理士)にも同じことを言われています。その白黒思考をどうにかしないと、どこに行っても同じことの繰り返しだと。

他責的思考

 他責的思考というのは、簡単にーというか、これしか言いようが無いのですが、何かしらの問題に対して、原因を内(自分)ではなく外(他人)に求めることにあります。あまり褒められたものではないかもしれません。自己を顧みることが無いわけですから。

 で、母親然り、反省をしろ。という訳ではないですが、その思考からはなんとか脱しないと苦しいままだろう。という訳ですね。

 確かに苦しい。なんせ問題の原因を外に求める限り、問題は(基本的には)解決しない訳ですから。

 問題となる事案(incident)は、分析した上で、自己を顧み、自己を変革しなければ、中々解決は見られません。

 しかし、ここでタイトルにもある通りジレンマに襲われる訳です。

自己変革に伴うジレンマ

 wikipediaはまぁ優秀ですね。ジレンマについてもしっかりと定義が載っています。

ジレンマ、ディレンマ とは、 ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。心の葛藤。 哲学や議論、修辞学の分野において前提を受け入れると2つの選択肢の導く結論がともに受け入れがたいものになることを示す論法。日本語では両刀論法ともいう。 上記のいずれかを指す。

 自己変革におけるジレンマとは具体的に何を指すでしょうか。それはある意味で人生の取捨選択と言えるでしょう。

 筆者にとって、今のところ人生とは=仕事です。ある意味無敵の人です。そしてその仕事とは臨床工学技士であり、臨床工学技士の業務としては何があるかと言えば、血液浄化であり、つまり血液透析を指します。

 そして血液透析をするうえで、患者管理とはあらゆるデータを元に、患者に対して至適透析を実施することが命題である。と筆者は考える訳です。

 しかし、ここで取捨選択をするということは、職場の愚痴を例に挙げれば、今の職場の不適当な透析治療を迎合するということと≒なのです。共産主義的ですね。みんなで手を繋いでゴールしよう。といった感じです。レベルの低い(と思っている)位置に自分を合わせなければならないわけですから。ただ、件のポストでも言われていますが、この考え自体が傲慢である。とも言われます。まぁ傲慢でしょう。

 上司にも言われました。「今あなたが旗を振っている場所は、みんなからすれば山頂から旗を振っているように見えている。みんなと君の間には、森があり、崖があり、谷があり、みんなどうやってそこまで進めばいいのかが分からないの。だから、君がそこから降りて、みんなと同じ平原に立ち、できればみんなの背中を押す役割をしてほしい」と。

 正直、筆者がこれまで得てきた知識を、そんな簡単に渡していいのか?自学自習しない人間が悪いのではないだろうか?という思いが捨てきれません。これもまたジレンマの一つかもしれません。

  筆者は現職場に復職時、自身の現況を伏せて入職しました。所謂適応障害の事についてです。それにより、院長面談時に院長から「適応障害と知っていれば雇わなかった!!適応障害なんて言うのはね!なんでも他人の所為にする出来損ないの人間がなる病気だ!!!」と断言されました(これ自体はパワハラですが、これはこの際置いときます)。

 筆者としては愕然とした訳ですが、病態が寛解期となり、業務にもなんとか慣れてきた今、まさにその「他人の所為にする」という思考に頭を悩ませているわけです。まさかこんな事態になるとは。

職場での立ち位置

 と、色々綴ってきました。

 そんな筆者の今の職場での立場は、勝手に患者データ管理を始めてしまったばかりに「パンドラの箱」を空けてしまった状態です。

 医師の診療過誤(?)は勿論、技士の透析条件認識不足も露わにしてしまい、透析室全体からやっかみを食らっています。肩身の狭いものです。

 ただ、ここでもジレンマとでもいいましょうか。この患者データ管理が善なのか悪なのか、はたまたグレーなのか問題が出てくると思います。

 CE科としては、透析条件を考えるいい機会になりました。おかげでダイアライザーの変更やHDからOHDFへの変更も数件ですが実現したのも事実です。現状というのはそうスピードを伴って変わるものでもないのかもしれません。グッと我慢が必要なのでしょう。

他責的思考とジレンマ

 「どうしてこんなにデータが悪いのに、条件を変えないんだ!!」「患者さんが痒みを訴えているのだから、OHDFで強力に濾過を掛けるべきだ!!」

 これらは恐らく、他者への行動を期待するものであり、言い換えれば他責的思考とも取れます。ここで本来なら、筆者自らがロビー活動を行い、根気強く根回しを行い、CE科全体の意識変革を行うように働きかける事が必要なのかもしれません。しかし、ここでもジレンマというか、葛藤があります。

 「果たしてこれは僕の仕事なのだろうか?」「僕が知識を広めないといけないのだろうか?」という葛藤です。自己変革への葛藤とでもいいましょうか。本当は先述したように、筆者自身が行動を起こすべきところを、他責的思考によって第3者に委ねてしまっているのかもしれません。

 仕事一つとっても上手くいっていないのに、人生全体が順風満帆なわけがありません。プライベートも特になく、仕事人間として生きてきた筆者は、仕事が躓くことで多大なストレスを抱える訳です。

 理性としては理解していても、本能的な部分で他責的思考に陥ってしまうのは筆者の欠点の一つと言えるでしょう。そして、その筆者の本質を変革しようー自分を変えようとするパワーは多大なストレスですが、いずれは人生でぶつかる壁ーやらなければならない事なのかもしれません。

あとがき的言い訳

 こういう筆者の脳みそをひけらかす記事は、エビデンスに何ら基づかないので、ある意味書くのは楽です(整合性を取るのは大変ですけど)。

 他責的思考は自己中心性と通ずるものがあるかもしれません。これも先日、公認心理士でもある母と話していて論点となった一つですので、いずれ思考がまとまったら記事にするかもしれません。まぁ見つめる鍋は煮えないですからね(思考の整理学より)。気長にお待ちください。

 まぁ仕事のストレスもですし、X(旧Twitter)でも最近ストレスが多いので、愚痴成分多めなのは大目に見てください。

 では今回はこのくらいで。

ばいちゃ~

 

コメント

  1. 長野ななっと より:

    変わる選択をするか変わらないでいるという選択をするのか重要なポイントです

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