透析をすることは無駄なのか?

血液浄化

 このブログをご覧の皆様に於いては、筆者が職場でどういう活動をしているかはご存知かもしれません。

 24年の1月から、筆者は職場での採血データまとめを始め、それを活用した透析条件の向上などを行ってきました。

 しかし、つい先日、上司からある発言が飛び出ました。

 今回はその言葉の真意、解釈について私見を述べていこうと思います。

 職場の愚痴になりますが、少々お付き合いください。

きっかけはデータ資料の提出

 筆者は7月に入ってからこそこそと内職?をしていました。それは弊社でFuture Net Web+が導入されてからの、6年分の検査データをダウンロードし、毎月の表としてまとめ上げ、毎月のKt/Vをグラフ比較できるように整形することでありました。

 こつこつ3週間データを整形し続け、なんとか今月までの6年分のデータを全て表としてパワーポイントに落とし込むことに成功しました。

 このデータを見ると、筆者の活動の成果は一目瞭然。この5年半は施設Kt/Vは中央値が1.3前半、悪ければ1.25という最低な数値をたたき出しているのに対し、24年1月~7月はKt/Vが1.3後半を安定して叩き出し、最高値はようやくガイドライン推奨値である1.4まで上昇しました。

 誰かが旗振り役をしなければ、やはり条件は良くならない。それを新入職者である筆者がやった。という紛れもない証拠でした。

 逆を言えば、筆者より前からいたスタッフは、医師以下全てが怠慢を働いていたという証左にもなります。

 さて、筆者はこのデータを以て、技士長へ「6年分のこの透析室の成績です。一度確認してください。」と上申しました。

技士長の回答と技士部の方向性

 この資料を受け取った技士長。しかし、中身をパラパラと適当に目を通し、開口一番発した言葉はこれでした。

 「別にここはそこまでガンガン透析回す施設じゃないしな~。」と。

どうやらこの資料を渡す直前、年長技士と主任技士との3人で世間話をしていたらしく、その中で「この透析室は高齢者も多いし、そこまで生きたいと思ってる人もいないのに、別に透析そこまで積極的にする意味ないよな~。」という会話がなされたようなのです。

透析条件を操作する

 それを聞いて筆者は愕然としました。

 ドクターの方針がどうだのといつも言い訳を言うが、結局条件を決めているのは技士部です。

 であれば、患者の透析効率や予後を規定し、QoLを伸ばせるのは我々臨床工学技士であるはずです。

 筆者はその信念?事実?に基づき、ガイドラインに沿うようにKt/Vを上げ、PやKをコントロールするべきだと思い、適切なダイアライザーや血流量の確保、透析時間の延長を提案してきました。

 しかし、当透析室担当医師や技士長以下、技士部の総意はそうではないのです。

この方針が意味するところとは

 「どうせ3年5年もしたら死んでるような人たちに、そんなにガンガン透析回したって意味ないやん。うちは終末期みたいな病院やから、患者さんもそんな積極的に透析したいと思って来てないしなー。うちはそういう病院じゃないから。」と

 どうせ死ぬのだから透析をする意味はない?透析治療はなぁなぁでいい。と??

 一部署の所属長が言ってもいいセリフではありません。ましてや医療従事者です。

 極論ではありますが、これは患者へ死の宣告をしていることと同義ではないでしょうか。

医療が介在する、積極的安楽死

 血液透析というのは、究極の延命治療です。

 世界的に観た胃瘻などの処置は、究極行わなくても生きることは可能です。作ったとしても、いずれ離脱することが可能です。

 しかし、血液透析はそうはいきません。標準的には3回/週、生活を厳しくすれば、恐らく週1回でも生きることは可能でしょう。

 が、上司の言葉はこの更に上を行きます。

 それは、患者の意思を確認することなく、別に好きで透析しているわけではない。という決めつけから、「死なない為の透析」を実施する事なのです。

 これは、最低限の透析を回せればいい。透析効率は1.4に届かなくても構わない。無理に4時間回さなくてもいい。 少々PやKが高くても問題ない。

 死ななければそれでいい。という考え方なのです。これはれっきとした「医療の介在する安楽死」に他なりません。

本来あるべき透析とは

 筆者が思う本来の透析は、「生きるための透析」です。

 透析をするために生きるのではなく、生きるために透析をするーあくまで生を繋ぐ手段としての透析です。

 そして、生きることで発生するあらゆる苦痛について、それを透析治療を通じて緩和すること。それが筆者が考える【緩和ケアにおける透析】という考え方なのです。※この内容については別記事でご紹介します。

 代表例を挙げれば、透析掻痒症に関してはβ2-ミクログロブリン除去率が80%以上、α1‐ミクログロブリン除去率が30%以上が必要だと言われています。これを達成するために、日本であれば前希釈オンライン血液透析濾過で1session60L以上のCVが必要とされています。

 しかし、透析掻痒症は不眠を誘発し、作業効率の低下を招き、QoLの低下を招きます。強いては生命予後にも影響する始末。

 透析治療で何かしら手が打てるのであれば、それに越したことはありません。

 この「掻痒症」という苦痛を緩和することが、透析治療の役目である。と考えます。

「生きる」とは

 随分哲学的・倫理的なタイトルを打ち出しましたが、まぁそんな難しい話、筆者には不可能です。

 ちょっと?ネガティブな話をすれば、生きることに苦痛は付き物です。苦しくない人生などない。とも言えるでしょう。

 但し、楽しい事のない人生もまた皆無です。筆者も離婚を経験しました。それはそれは辛い出来事で、この事を一般的には「Grief:悲嘆」と表現します。どちらかというと精神心理医学用語です。

 しかし、我が子と暮らした3年間はとても幸せな時間でした。これ以上ないほどの幸福に包まれていたと表現しても差し支えありません。

 緩和ケアは、この「苦しみ・苦痛」にフォーカスし、肉体的・精神的・スピリチュアル的な側面からサポートすることを目的としています。

 【緩和ケアにおける透析】もそうで、透析中の苦痛(穿刺痛、姿勢を変えれないことの苦痛・動けないことへのストレス)・透析後の苦痛(疲労感や不眠、掻痒症など)を如何に低減・緩和させてあげることが出来るか、QoLを上げることが出来るかが透析に求められる医療だと筆者は考えます。

弊社と筆者の方針の違い・亀裂

 さて、ここまでだらだらと述べてきましたが、結局はここに帰結します。

 積極的安楽死を推進する弊社透析室に対し、筆者は適正透析を通じて、【緩和ケアにおける透析】を患者に提供しようという考えの持ち主です。

 この180°違う方針を曲げるのはほぼ不可能です。筆者は職場に味方がいる訳でもなく、出る杭は打たれるでしょうし、大きな流れには逆らえません。社会とはそういう理不尽なものです。

 取りうる選択肢は恐らく二つ。

 この職場で、信念を曲げて、人間としてー医療従事者として腐り果てるか、それとも、理想の医療を追求するために、この職場を去るかです。

 筆者はこの職場で働いてやっと1年が経ちました。しかし、まさかこんな低次元な壁にぶつかるとは思いもせず、困惑しています。

 こんなにも倫理観の欠如した医療従事者集団がいることが、おぞましく感じます。

 これからどうしていくか。このリアリティーショーを、読者の皆さんも楽しんで見ていてください。

あとがき

 さてさて、久しぶりの仕事の愚痴シリーズでしたね。

 あまり最近は執筆活動が進んでいないのに、こんな記事を先に出してしまって申し訳ない。

 しかし、どうしても筆者としては許せない一線だったので記事にしました。

 あまりにも低俗な透析医療の提供。積極的な安楽死の推奨。あざなりな透析条件…

 どれをおいても、看過できるものではありません。

 どうしたものかと頭の痛い日々の連続です。

 とまぁ、偶には長文の愚痴を失礼しました。

 【緩和ケアにおける透析】については造語なのでご容赦を。また解説?記事が書けましたら公開いたします。

 それでは今日はこの辺で。ばいちゃ~~ノシ

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