「コミュニケーションに見返りを求めるな」は本当に正しいのか?

自己紹介

―― 人間関係の“純粋さ”と“しんどさ”の間で ――

おはこんばんちわなら

仕事中にふとあるフレーズが浮かんできました。

「コミュニケーションに見返りを求めるな」

仕事中に何考えてんねんっていう突っ込みは無しの方向で(笑)

さて、自己啓発本とかの、そこら辺の本にでも載っていそうなワンフレーズですよね。

ただ、この言説ってどこまで正しく、何が間違っているのでしょうか。

今回はそんなことを考えてみましょう。

■ はじめに:返ってこない言葉の中で

優しくしたのに、返ってこない。
丁寧に伝えたのに、反応がない。
誰にでも、そんな瞬間はあると思います。

「見返りを求めるな」――この言葉は一見、潔く、格好いい。
でも、実際に人と関わりながら生きていると、
その“正しさ”がときに人を苦しめることもあります。

特に医療や福祉の現場では、
こちらが真剣に言葉を届けても、相手が応えてくれるとは限らない。
それでも話しかけ、説明し、寄り添う。
そんな日々を重ねるうちに、
「本当にこれでいいのだろうか」と感じる瞬間が訪れます。

■ 理想としての「見返りを求めない」

“見返りを求めるな”という言葉が示すのは、
損得勘定のない、純粋な関わりの大切さです。

「相手を操作するための言葉」ではなく、
「相手のために生まれる言葉」。
そこにこそ信頼が宿るという考え方。

確かにそれは理想的で、美しい。
でも、現実の人間はそんなに強くできていません。

■ 人は「反応」で生きている

私たちは、ほんの小さな“見返り”で心を保っています。

「ありがとう」
「わかりました」
「助かりました」

たった一言で、心が救われる。
見返りとは、必ずしもお金や成果ではなく、
「理解された」という感覚なんですよね。

それがまったく得られない時間が続くと、
どんなに誠実な人でも、やがて摩耗してしまいます。
だからこそ、「完全に見返りを捨てる」ことは、
人間らしさを失う危険すらあるのだと思います。

■ 「見返りを目的にしない」という生き方

見返りを“求める”のではなく、
見返りを“目的にしない”というスタンス。

この違いが、心を守る鍵になると思います。

つまり、
「返ってこないと意味がない」ではなく、
「返ってきたら嬉しいけど、返らなくても自分の誠実さを大事にする」。

その姿勢こそが、
長く人と関わる上でのしなやかさなのだと思います。

■ 現場から見える“沈黙のコミュニケーション”

臨床工学技士として透析室に立っていると、
言葉が少ない患者さんに出会うことも多い。

頷きも、表情の変化もないまま、
ただ淡々と時間が流れていく。

けれどある日、
「いつもありがとうね」とぽつりと呟かれる瞬間がある。

その一言に、何日分もの沈黙が報われる。
あの瞬間こそ、「見返りを求めない日々」の意味が凝縮されているように感じます。

■ 結びに:言葉は投げかけた瞬間に自由になる

結局のところ、
言葉というのは投げかけた瞬間に、もう自分の手を離れます。

届くかどうかを決めるのは、相手の心。
私たちはただ、誠実に言葉を選び、投げ続けるしかありません。

それは無償ではあるけれど、無意味ではない。
なぜならその行為こそが、自分の中の信頼を育てるからです。

見返りを求めないというのは、
“報われない覚悟”ではなく、
“自分の誠実さを信じる自由”なのかもしれません。

返ってこない言葉にも意味がある。
それを信じられる人は、誰かの心に必ず届いている。

あとがき

コミュニケーションって本当に難しくて、コミュニケーションの相手というのは、決して患者だけではなく、スタッフ間や出入りする業者などもそうです。

勿論、仕事だけでなく、プライベートでも様々な人と関わります。それが人生というものです。

人間というのは強欲なもので、ついついコミュニケーションを取ると、何かしらの見返りを求めたくなります。そして、見返りをくれない相手に対しては見限ってしまいがちです。

しかし、7つの習慣でも出てきますが、コミュニケーションを取ることで、相手に対する信頼口座に信頼を貯蓄していくことができるようになるのです。

そしてその目に見えない「信頼」は、いずれ何かしらの形で返ってくる日が来るのでしょう。

見返りが無ければ、人の心は摩耗するのも事実です。だからこそ、何かしらの趣味や仲間が必要なのでしょう。

そんなことを考えながら、僕は日々仕事に向き合っています。

今回はそんな、若干ポエムちっくな記事でした。

さ、今日も仕事頑張ってくっかー

コメント

タイトルとURLをコピーしました